ミャンマーが今でも好きなわけ(078)
- K
- 2020年9月21日
- 読了時間: 5分
好きな国、好きな都市、住んでみたい街、いままで世界各国を見てきてそれぞれいくつかあるけれど、
ミャンマーはいまでも自分にとって思い入れの強い国だ。
シンガポールに住み始めた2010年、
その年からすぐ、
日本でいうと県をまたぐくらいの気持ちで、
シンガポールの近くの国にはいろいろ出張した。
ミャンマーもその一つだ。
2010年当初はいまのように綺麗なホテルもほとんどなく、
携帯電話の電波もローミング出来ない国で、
レンタルSIMもなかったのでなかなか現地では苦労した。
タクシーも、動いているのが不思議なほどのオンボロぶりで、
もう座るのが嫌だと思うほど汚いシートだったり。
紙幣も触るのを躊躇するくらいのクタクタぶりで、
破けているのは当たり前として、
もう何が書いてあるのかわからないほど黒ずんで湿った紙幣ばかりだった。
なのに、両替所で受け付けてもらえるのは、
ピンピンの新札の米ドルのみ。
折り目一つついているだけで両替拒否されることもあった。
そんなミャンマーに特別な思い入れを持った理由の一つに、
シンガポールへ移住してきて初めて雇ったメイドさんがミャンマー人だったということがある。
シンガポールのコンドミニアムには、メイド部屋つきのタイプが多い。
一緒に住むことになるので、
最初は少し抵抗があったものの、それはそれで楽しい経験だった。
まだ経験の浅いメイドさんだったので、
いい意味で垢抜けていなくて、
ピュアで真面目な人だった。
国民の9割近くが仏教徒のミャンマーでは珍しく、
クリスチャンのミャンマー人だったということも、
その穏やかな性格に影響していたのかもしれない。
ミャンマーへ出張に行くことをメイドさんに伝えると、
いつもすごく喜んでいた。
ミャンマーの都市ヤンゴンでいつもお世話になっていたミャンマー人の友人は、
当時旅行会社を経営していて、
ヤンゴン以外のミャンマーの都市も案内する、と言ってくれたので、
ある時、4都市ほど右回りに回ることにした。
ミャンマーの国内線は、バスみたいなシステムになっていて、
右回り、左回りのどちらかに乗り、各空港にストップしてはまた飛び立つ。
乗りたいとこから乗り、降りたいとこで降りる。
で、右回りに回る都市の一つに、避暑地ピンウーリン(Pyin Oo Lwin)があった。
ここは、メイミョーとも呼ばれていた街で、
こここそが、メイドさんの出身地だった。
メイドさんに伝えると、
飛び上がって喜んでいて、
是非とも家族に会ってみてほしい、
ピンウーリンの中でも自分の村を訪れてみてほしい、
家族には伝えておく、ということになった。
村にたどり着くまでにいろいろあった。
車のエンジンが止まってしまい、代わりの車を炎天下の中2時間待ちぼうけたり。

村へ行く途中の道が軍の敷地の中を通っていることに気が付かず、
一眼レフを持った私は、銃を持つ軍人さんにカメラのデータを消すよう怒られたり。
ミャンマー人の友人が必死に説明してくれて事なきを得たが、
ヒヤヒヤした。
その友人ですら道を何度か間違った末にようやくメイドさんの出身の村へたどり着いた。
村というか、
それはもう、メイドさんの血のつながったいくつかの家族が集まっている集落という印象だった。
村に外国人がやってくることなど、珍しくて仕方がないというか初めてだったそうで。
文字通り村の人が総出で出迎えてくれた。
その村の中でも、レンガ造りのひときわ頑丈で立派な家がひとつあり、
(他の家は、編んだ竹の壁にヤシの葉を並べた屋根)
なんとそこがメイドさんの家だった。
メイドさんのお姉さん(熱心なキリスト教徒)がその家で出迎えてくれ、
たくさんの人が、たくさんの品数の料理をこれでもかというボリュームで、
並べてくれていた。
そして、私と、案内役の友人が、料理の前へ。
村の人々は、私達を囲むように円形に。
料理を食べるのはどうやら私と友人。
みんなは見ているだけ。
満面の笑みで。
いろいろ聞いていると、
メイドさんのシンガポールでの稼ぎで、この村の多くの人が支えられているらしいことが、
わかってきた。
この立派な家も、メイドさんの稼ぎで建てられたそうだ。
一度、メイドさんが給料を前借りしたい、と言ってきたことがあり、
真面目なメイドさんなので、よほど困っているのかと思い、
給料を1ヶ月早く渡したことがあった。
どうやらそれは、
村に電気が通るための電信柱を、毎月シンガポールで稼いだお金で、
一本ずつ増やしていき、もうすぐで村に届く、という最後の電信柱を建てるお金だったようだ。
そのおかげで、いまは電気がつくのだ、とお姉さんが教えてくれた。
そのあたりで、私に対する熱烈歓迎ぶりの意味をようやく理解した。
シンガポールへ出稼ぎに行き、村を支えている妹の、
その給料を払っているのは、今、目の前にいる日本人なんだ、ということだ。
ミャンマー人の友人曰く、そのときに出された料理の数々、
肉料理が多かったのだが、
こういったものは彼らにとって特別な日じゃないと食卓に並ぶことはないものばかりだそうだ。
メイドさんの子供も含め、子供も何人かいたので、
何度も、「一緒に食べようよ」と伝えたが、
断固、笑顔のままで首を横に降った。
絶対に食べきれないボリュームの料理は、
我々が食べて我々が帰ったあとに、皆で食べるとのこと。
カメラを向けると皆慣れていないので、ものすごく喜んでくれたので、
写っている写真は全て満面の笑み。
村を出る頃には、
おじいちゃんもおばあちゃんも「本当にありがとう」と涙目でハグをしてくれて、
目頭が熱くなった。


10年以上前の写真だから、
この子達もいまは立派なおとなになっているはずだ。
このミャンマー右回りの旅では、
バガンも行ったし、インレー湖にも行ったのだが、
ピンウーリンほど心に残ったイベントはない。
そしてピンウーリンでは当時中国人が買いまくって高騰していた不動産視察をした。
別荘地の土地、広大な農地、中古の一軒家、新しくできる集合住宅、商業施設、
歴史ある英国調の宿泊施設などを見て回った。
が、
メイドさんの村ほど、記憶に残ったものはない。
ここで食べた料理を、他のどの観光地で食べた料理よりも鮮明に覚えている。
その数年後、
メイドさんが体調を崩して動けなくなった時期ということもあり、
うちも子供がある程度成長してメイドさんが必要なくなったということもあり、
我が家を出た。
その後、街で偶然会ったときには、
体調は回復して、また別の家でメイドをしているとのことだった。
当時一ヶ月に2回行くこともあったほど、
頻繁に通ったミャンマーへは、いまでは年に1回行くか行かないか。
それでも事あるごとにメイドさんとその家族のことを思い出すし、
今も元気で幸せでいてほしいと思う。
